LOGIN出陣は、三日後と決まった。その間、宮は昼夜を問わず動き続けた。兵糧の手配、武具の点検、伝令網の整備。ゼルの立てた計画に従って、すべてが淀みなく進んでいく。彼は五歳の身体で、丸二日間、ほとんど眠らずに指示を出し続けた。三日目の夜、私は広間に皆を集めた。窓の外はすでに暗く、卓の上には燭台がいくつも灯されている。その光の中に、シェラ、ゼル、ネフィリス、そしてガイル様の顔があった。「――配置を、最終確認いたします」ゼルが地図を広げた。「本隊は、西部の峡谷に布陣いたします」彼の指が、地図の一点を示した。「殿下が総指揮。ガイル様が右翼、シェラ殿が左翼を担当。魔王様は、中央後方に」「後方、ですか」私が問い返すと、ゼルは頷いた。「はい。魔王様の御力は、切り札でございます。序盤で消耗させるわけには参りません」その判断は、理解できた。けれど、後方で待つというのは、性に合わなかった。「わたくしも、前に出たいのですが」「駄目だ」アルヴィス様が即座に答えた。「あなたが倒れれば、それで終わる。分かっているだろう」その断固とした調子に、私は反論できなかった。「ネフィリスは」私が問うと、彼が一歩前に出た。「あたしは、別行動でございます」「別行動」「はい。戦が始まったら、その混乱に紛れて、総本山へ向かいます」その言葉に、私は息を呑んだ。「一人で、ですか」「隠蔽魔法を使える者は、あたししかおりませんので」彼は、静かに答えた。以前のような独断ではない。これは、正式に承認された作戦だった。*「危険すぎませんか」私が言うと、ゼルが説明を引き取った。「危険でございます。ですが、これ以外に方法がございません」彼は、地図の上の
ネフィリスの報告から、三日が過ぎた。宮は、完全に戦時の様相を呈していた。廊下には伝令が絶えず行き交い、広間には地図と兵站の書類が山積みになっている。庭では、騎士たちが早朝から訓練を重ねていた。その掛け声が、私の部屋まで届いてくる。半月前の穏やかな朝が、遠い昔のことのように思えた。「――現在の集計でございます」朝議の場で、ガイル様が書類を広げた。「教会軍、およびアーデルハイド王国軍、合わせておよそ一万二千。国境に集結中でございます」その数字に、広間の空気が張り詰めた。四方から攻められたときの七千を、大きく上回っている。「こちらは」アルヴィス様が問うた。「帝国正規軍、九千。加えて、支持を表明した貴族家の私兵が、およそ二千」「一万一千か」「はい。数の上では、ほぼ互角でございます」「ですが」ゼルが、静かに口を挟んだ。「今回は、四方に分散する必要がございません。相手は一つの方角から来ます。地形を選べば、こちらが有利かと」彼は、卓の上の地図を指した。「西部の峡谷。ここで迎え撃てば、数の差は無効化できます」「勝てるか」アルヴィス様の問いに、ゼルは少し考えてから答えた。「――五分と五分でございましょう。ただし」「ただし」「これは、あくまで軍事的な話でございます」その言い回しに、私は引っかかった。「軍事的でない話、というのは」ゼルは、私を見た。「聖女の存在でございます」その一言で、広間の空気が変わった。「あの方が神託を下し続ける限り、教会軍の士気は落ちません。逆に、あの方が沈黙すれば、この戦の名分そのものが消えます」「つまり」「聖女こそが、この戦の中心軸でございます」その分析は、恐ろしいほど正確だった。私は、卓の縁
――――ミナ視点――――朝が来たことは、光の色で分かる。鉄格子の隙間から差し込む光が、白から金へ、そして薄い橙へと変わっていく。その色の変化だけが、わたしにとって時間の流れを知る手段だった。壁の高いところにある窓は、開かない。硝子の向こうに、街の屋根がいくつか見えるだけ。わたしは寝台から起き上がり、いつものように髪を整えた。誰も見ていなくても、そうする。癖になってしまった。*「聖女様。お召し替えのお時間でございます」扉の向こうから、侍女の声がした。「――どうぞ」わたしが答えると、鍵の開く音がした。かちり、という金属音。この部屋の扉は、外側からしか開かない。入ってきた侍女は、いつもの人だった。名前は知らない。この半年、毎日顔を合わせているのに、彼女は一度も自分の名を告げなかった。訊いても、答えないよう命じられているのだろう。「本日の神託は、こちらでございます」彼女は羊皮紙を差し出した。わたしは、それを受け取った。そこには、わたしが「今日、神から受け取ったこと」が書かれていた。読み上げるのは、正午。大聖堂の広間に集まった信徒たちの前で。文言はすでに決まっている。抑揚の付け方も、視線の落とし方も、すべて指定されている。『魔の巣窟に集いし者どもは、なお蠢いております。信徒よ、恐れることなく、剣を取りなさい』わたしは、その文字を目で追った。心が、何も動かなかった。もう、慣れてしまった。半年前は、こういう文章を読むたびに胸が苦しくなった。今はそういうこともない。それが一番恐ろしいことのように思えた。*正午、わたしは広間に立った。数百人の信徒が、床
離反の報せから、五日が過ぎた。その間、ネフィリスの姿を宮で見ることはなかった。教会側の動向を探るため、アーデルハイド王国へ向かったという。ゼルの仕組みに従い、出発前には正式な届け出が提出されていた。行き先、目的、想定される滞在期間、そして緊急時の連絡手段。すべてが、几帳面な字で記されていた。その書類を初めて見たとき、シェラは複雑な顔をしていた。「変われば変わるものでございますね」「ええ。少し、面白いくらいに」私は、そう答えて笑った。*六日目の夕刻、彼は戻ってきた。執務室の扉が叩かれたとき、私はアルヴィス様と地図を囲んでいた。窓の外はすでに暮れかけていて、卓の上には燭台が灯されている。「――ネフィリスにございます。報告に参りました」扉越しに聞こえたその声は、いつもの騎士めいた口調だった。「入ってくれ」アルヴィス様が答えると、扉が開いた。そこに立っていた彼は、旅装のまま、髪も乱れていた。何日も休んでいないのが一目で分かる。それでも、姿勢だけはまっすぐだった。「まず、お叱りをいただく前に」彼は、部屋に入るなり、そう切り出した。「叱る、とは」「予定より一日、帰還が遅れました。届け出の期限を超過しております」その言葉に、私は思わずアルヴィス様と顔を見合わせた。「一日、ですか」「はい。申し訳ございません」彼は深く頭を下げた。その真剣さが、かえって微笑ましかった。「理由は」「国境の警備が強化されており、迂回を余儀なくされました。事前に想定できた事態でございます。読みが甘うございました」私は、その報告の仕方に感心していた。以前の彼なら、こんな報告はしなかっただろう。そもそも届け出すらせず、勝手に行き、勝手に帰ってきていたはずだ。
嵐は、二日続いた。雨が上がった朝、私は窓辺に立って庭を眺めていた。花壇の花はいくつも倒れ、木々の枝が方々に散らばっている。庭師たちが早朝から出て、片付けに追われていた。その光景を、私はしばらく黙って見ていた。嵐が過ぎれば、片付けが始まる。当たり前のことだった。けれど、今から来る嵐には、片付けがあるのだろうか。そんなことを、ぼんやりと考えていた。「――お嬢様。朝議のお時間でございます」シェラの声に私は振り返った。「ええ。参りましょう」その日の朝議が、これまでで最も重いものになることを、私はまだ知らなかった。*広間に入ると、空気の違いにすぐ気づいた。円卓を囲む閣僚たちの数が、明らかに少ない。いつもなら十二の席が埋まるはずなのに、今日は八つしか埋まっていなかった。空席には、書類すら置かれていない。「――四家が、欠席しております」ガイル様が、私たちが着席するのを待って報告した。「理由は」アルヴィス様が問う。「体調不良、領地の急務、そして家族の事情。それぞれ、そのように届け出ておられます」「三日前まで、誰も体調を崩してはいなかったな」「はい」その短いやり取りだけで、何が起きているかは明白だった。「離反、ということですね」私が言うと、ガイル様は重く頷いた。「断定はできませんが、そう見るべきかと」「四家とは」「シュタイナー伯爵家、ロートフェルト伯爵家、ベルンハルト子爵家、そしてオストハイム男爵家でございます」その家名を聞きながら、私は記憶を辿った。婚約発表の夜、支持を表明しなかった家々。何も言わず、静かに杯を傾けていた人たち。あの沈黙が今、はっきりとした形を取ったのだ。「共通点は」私が問うと、ガイル様が答えた
聖女認定の布告から、三日が過ぎた。その間、帝国は静かだった。表向きは、いつも通りの日々が続いている。だが、宮の空気は明らかに変わっていた。廊下を歩く文官たちの足音は速く、朝議は連日開かれ、地図の上の赤い印は日ごとに増えていく。私は、その変化を肌で感じながら、来るべきものを待っていた。「――アーデルハイド王国より、正式な通達が届きました」四日目の朝、ガイル様が広間に入ってきた。手にした書状には、見覚えのある紋章が押されている。私が生まれ育った国の紋章だった。「読んでくれ」アルヴィス様が促した。ガイル様は、羊皮紙を広げた。「『アーデルハイド王国は、聖女ミナ・レンフィールドの神託を、国家の意志として受諾する。これに伴い、レーヴェンハルト帝国との一切の国交を断絶し、聖教会の浄化に協力する』」*その文言を聞きながら、私は不思議なほど冷静だった。驚きはなかった。教会の要請を無視できる立場ではないと、以前から分かっていた。むしろ、ここまで持ちこたえた方が意外だったのかもしれない。「署名は」「アーデルハイド王国王太子、ユリウス・アーデルハイド殿下」その名を聞いた瞬間、私の指先が、わずかに強張った。「――ユリウス様が」「はい。国王陛下ではなく、王太子殿下の名で発せられております」「それは、どういう意味でしょうか」私が問うと、ガイル様は少し言いにくそうに答えた。「国王陛下は、半年ほど前から病床に伏せておられます。実質的な政務は、王太子殿下が代行されているとのことです」その事実を、私は初めて知った。かつての婚約者。あの断罪の夜、私に婚約破棄を突きつけた人。それ以来、一度も会っていない。彼が今、国を背負う立場にいることも、その国が帝国と断交したことも、こうして書状を通じて知るしかなかった。